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読書の備忘録

ケルズの書と彩飾写本について

 

ケルズの書――ダブリン大学トリニティ・カレッジ図書館写本

ケルズの書――ダブリン大学トリニティ・カレッジ図書館写本

 

 『ケルズの書』というのは、8世紀頃に成立したとされる彩飾写本であり、世界で最も美しい本とも呼ばれている。『ケルズの書』自体は、ラテン語で書かれた四福音書の本文写し(ウルガタ版聖書の「アイルランド」系統版)と装飾とから構成された未完の書物だが、その制作には様々な年代の複数の人々が携わっており、この意味で複数性の書物とも言いうると思う。ミーハンによる本書『ケルズの書』は、『ケルズの書』本文の翻訳ではなく*1、この謎めいた写本の研究解説書である。成立の事情、当時の歴史的背景や四福音書、頁に施された装飾の象徴性、写字生や制作に用いられた道具などについて、最新の研究成果を踏まえて順次解説を施している。

 

 ケルズの書をケルズの書たらしめているものがあるとしたら、やはりそれは組紐や渦巻きといった、独特の装飾だろうと思う。十字架、菱形、三点文様などの抽象的な図形や、もう少し具体性を帯びたものとして、4人の福音書記者や動物などの装飾がある。本文は福音書なので、当然ながら描かれているものもキリスト教と深くかかわっている。十字架は言わずもがなだろうけれど、三点文様は三位一体を、菱形はキリストや宇宙、神の言葉を表すらしい。四辺によって、四福音書記者、四方位、四季、四体液、四元素などを象徴している。

 

 描かれている動物もやはり象徴的な意味合いを施されているようで、中世の動物寓意譚(ベスティアリ)を引き合いに出しながら*2、本文と装飾との相関関係について述べられた箇所がことに面白かったですね。例えば、『フィシオロゴス』の中に、死んだ状態で生まれた子ライオンが3日後、親ライオンに息を吹き込まれて目覚めるというエピソードがあるが、それをキリストの復活になぞらえて、本文の傍らに獅子の装飾が添えられていたりする。

参考: 「動物寓意譚

 4人の福音書記者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)は、『エゼキエル書』の記述に従い、人間、獅子、牛、鷲でそれぞれ表される。この4人は言うまでもなく、基本中の基本の図像だと思うけれど、いつも忘れちゃうので、この場を借りてメモっておきます。聖マルコはヴェネツィア守護聖人ヴェネツィア共和国の国旗は有翼のライオンですよね(ということだけは憶えていた)。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/72/Lion_col_saint-marc_082005.jpg/220px-Lion_col_saint-marc_082005.jpg

 

 また、写本の物理的側面、ことに顔料について書かれた章も大変に興味深かったです。中世の青色はこれまでずっとウルトラマリン、すなわちアフガニスタン産のラピスラズリを原料とした顔料だとされていたのだが、どうやらこれは誤りであるらしく、分析の結果によると、『ケルズの書』(や『リンディスファーン福音書』)で用いられている青は、むしろインディゴや大青といった地元アイルランドで入手可能な顔料らしい。海の彼方からはるばるもたらされた貴重で希少な青、「ウルトラマリン」というのは、結局のところただの神話だったということですね。ファンタジー脳な当方は、事実に少しだけがっかりしました(笑)。

 

 ケルズの書の彩飾に用いられている顔料に、石膏、緑青、石黄があるが、これらはみなプリニウスの『博物誌』にすでに言及があるので、古代にも用いられていたそうです。

 ところで、写本の挿絵のことを「ミニアチュール」と言いますが、この語は「細密画」と訳されているけれど、実は赤色インクの「ミニウム」(鉛丹)を語源としており、サイズがミニだからというわけではない。

参考:「ミニアチュール

 

 実物が見れればベストだろうけど、なかなかダブリンまでは足を運べないので、有料とはいえiPadアプリもあるので、こちらでじっくりと眺めるのも良いかと思います。

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 同性婚が合法化されたというし、ますますアイルランドという国には好感度高しです(当方ヘテロですが、マイノリティに寛容な国が好きですので…)。

 

参考図書:

ケルト 装飾的思考 (ちくま学芸文庫)

ケルト 装飾的思考 (ちくま学芸文庫)

 

 

ヨーロッパ中世象徴史

ヨーロッパ中世象徴史

 

 

 

 

*1:最初、本文の翻訳なのかと思ってた…本文は結局のところ福音書だからそんなわけない

*2:『ケルズの書』が主に参照している動物寓意譚は『フィシオロゴス』とイシドールスの『語源論』